車の中は終始、静寂に包まれていた。
聞こえるのは、時折、外で鳴らされるクラクションと、ブレーキ音だけ。
私はどこに向かっているのかも分からず、ただ外を眺めていた。
ローマの観光名所を次々と通り越していき、段々と建物がなくなっていく。
市外に出て、昔ながらの田園風景が広がり始めたと思った矢先、車は静かに止まった。
「降りろよ、」
「…」
手を差し出しているのは、ディーノという男。
この男はイタリアでも5本の指に入るほど巨大なファミリー、キャッバローネの若頭。
長身で彫りの深い、いわゆるイケメンだ。
私はその手を取った。
いつもなら絶対に取らない。
ただ、私をファミリーに入れてスパイや、殺し屋として働かせたいだけなんだから。
でも彼は違った。
いや…
違うと「思った」
確信はないが、彼はきっと私を変えてくれると思ったの。
「ここはさ、キャバッローネの本拠地。ま、俺の城だ」
「…」
「部下が24時間体制で警備してるから安心しろな。
んで、そこに立ってんのがロマーリオ。俺の一番の部下だ」
「よぉ、ボス。事故らなかったかぁ?」
「うっせーな!大丈夫だっつの!」
「そーか!で、その後ろのが…あの?」
「だ。…えっと…?」
「…。・よ」
「へぇ。いい名前じゃねーか。なぁ、ボス」
「あぁ。じゃあ、。入れよ」
初めて本名を言った。
私のファミリーネームなんて、誇れるものじゃない。
飲んだくれて死んだ父親から継いだ名前なんだもの。
言うだけで吐きそうになる。
でも、言った。
なぜだか分からない。
でも、言える気がした。
ひとつ、心の枷が外れた音がした。
屋敷の中は壮大だった。
一流マフィアのボスはこんな豪華な暮らしをしているのかと感心した。
ディーノに着いて行くと、とある部屋に通された。
アンティーク調で統一された家具の中にもモダンさを兼ね備えた部屋だ。
促されるままに椅子に座った。
彼自身もドカッとソファに腰掛けた。
「なぁ、。何で付いて来た?」
「!」
「噂ではお前は誰にも付いていかないと聞いた。
仕事依頼は全て手紙だと聞いていたしな。
でも今夜のお前はすぐに俺に付いて来た。何故だ?」
「…」
「キャバッローネのボスだと知っていたからか?」
私はひと呼吸置いてから口を開いた。
「…変えてくれると思ったからよ」
「…」
「知ってる?
トラステベレってね、想像以上に寂れてるの。
スリや引っ手繰りなんか可愛いもので、傷害事件とか、殺しとか毎日起こってる。
そんな町で生きているとね、自然と自分を守る術を身につけるものなのよ。
それが私は『殺し』っていう手段だっただけ。
やられたら、やり返す。それのどこが悪いっていうの?
でもね、そんな毎日が嫌だった。
一歩地区を出ればイキイキとした世界が広がってるのに、私は海の底を徘徊してる。
光も届かないようなふかーい海の底…」
私は休みなく話続けた。
それをディーノは一言も口を挟まずに聞いてくれていた。
「そんな世界が息苦しかった。
もう限界だったのよ。
外に出ようと思えば出られたわ。お金はあったし。
でも、表の世界に出たら私みたいな殺し屋、すぐに捕まっちゃう。
バックもいないし、そしてあっという間にあの世行き。
私には行き場所がなかった。
そこにあんたが来たのよ。」
「…」
「初めてだった。私の名前を呼んだ人は」
「…」
「だって誰にも言ってなかったから。
誰に聞いたの?私の名前…」
「…キャバッローネの情報網を舐めちゃいけねぇな」
「ふふ…別に舐めてないわよ。
あんたならこの息苦しい世界から救ってくれると思った。
そうでなくても…」
私は立ち上がり、窓の外を見た。
庭には噴水があり、綺麗に剪定された植木が芸術的に照らされていた。
そしてふと、ディーノの方を向いた。
このとき、私がどんな表情をしていたのか自分でも分からない。
でもきっと、彼も私の顔は月明かりで分からなかったと思う。
「あんたになら、殺されてもいいと思った」
「…」
だって、初めて私を「私」として接してくれた人だから。
「…殺さねぇよ」
「ぇ…?」
「俺が…お前をその深い海の底から引き上げてやる。
だから、一生…俺の隣にいろ。これは命令だ……」
一番大きな、心の枷が外れた音がした。
トラステベレは、地獄のような場所だ。
マフィアの下っ端が、ドブネズミのように暮らしている。
夜にしか行動できない場所は、
人間が暮らすには、息苦しい場所だ。
そんな場所から私を引き上げてくれた彼には感謝しようと思う。
トラステベレ
の
女神
Dolce Pioggia -甘い雨-
『トラステベレの女神』はもういない。
2013/08/07